「モリソン号」事件~「アヘン戦争」・「太平天国の乱」・「アロー戦争」「日英修好通商条約」~「第一次東禅寺事件」「ロシア軍艦対馬占領事件」の流れを、それを担った人物たちを追いながら解説していきます。

①モリソン号事件から日米和親条約~モリソン、ギュツラフ~

1837年、日本にアメリカの商船「モリソン」号が、日本人漂流者「音吉」らをのせて来るも、1825年の異国船打払令に基づき打ち払われてしまう。  この事件は、「尚歯会」というオランダの学問を研究している集団の高野長英や渡辺崋山が幕府の対応を批判したとして処刑されることになる「蛮社の獄」(1839年)に繋がる。

 

高野長英や渡辺崋山が反対したのは、今回の事件においては漂流民を届けにきたという名分があったのに一方的に打ち払いをしたところにあるようだ。「尚歯会」は蘭方医とは別の集団であったようで、特に高野長英はオランダの軍事学に精通していたものの、幕府側はこの知識人をこの事件で失い、後に戊辰戦争に負ける一つの要因にもなるようだ。

日本人漂流民「音吉」は、1832年鳥羽から江戸に渡る途中漂流して、アメリカの太平洋側のオリンピック半島に辿り着き、現地の人に助けられ奴隷とさせられ、イギリスのハドソン湾会社が救助する。

ハドソン湾会社とは、ハドソン湾から広域に人がる貿易会社で、設立は1670年で初代総督はカンバーランド公ルパートが任命されている。ジェームズ1世の娘であるエリザベスと30年戦争の原因を作ることのなるプファルツ候フリドリヒとの間に生まれたルパートは、30年戦争の初戦で父が皇帝フェルディナントに負け、叔父であるオランダ総督のマウリッツのもとに亡命する(因みに妹であるエリザベトはここでオランダにいたデカルト(フランスなどの知識のざわめきから逃れていた)と知り合う事になる)。その後、オランダで軍隊に所属し、兵法を教えてもらう。そして一時プファルツ公再起のために母などと蜂起するがイギリスの支援が思ったよりもうけられず負けてしまう(ジェームズ1世は娘を助けたかったが、議会において予算を通すことができなかった。ジェームズ1世のもとにいたフランシス・ベーコンもこの30年戦争での議会の承認と資金集めのために失敗して失脚する。)。その後、ジェームズ1世の息子チャールズ1世がクロムウェルなどの議会派と国内戦争を行い、王党側について戦う。その後、チャールズ2世が王政復古を行い、ルパートは海軍として復帰する。一定の成果を上げた後軍を辞め、科学者や冒険家と交流を持ち王立協会員として名を馳せる。そのため、北アメリカと北極海での探検を支援するハドソン湾会社に任命されたようだ(ハドソン湾付近はルパート・ランドと呼ばれたりもして、さらにカナダのプリンス・ルパートという都市名はルパートから来ている)。後にハドソン湾会社は貿易が中心になる。

そのハドソン湾会社が「音吉」を1835年ロンドンに送る。そして、おそらく日本へ帰還する方向性も考えて、東インド会社に通訳になったドイツ人宣教師ギュツラフのもとに送られる。

ギュツラフは、1824年イギリスに一時帰国してたロバート・モリソンの感化を受けて、中国の宣教師を目指してきた人だ。

ロバート・モリソンは1800年初頭に中国に宣教にきた宣教師だ。彼はイギリス人だが東インド会社は当時宣教師を中国に向かう船に乗せないという規則があり、オランダ東インド会社経由で来たようである。そして中国において貿易を行っているアメリカの商会(オリファント・コーポレーション)の創業者オリファントと出会い1820年辺りに親交を持っている。この商会の船を創業者が「モリソン号」と名付け、後のモリソン号事件の船に繋がる。

ロバート・モリソンは中国辺りで同じイギリス人の女性と結婚し、子どもができる。その子どもジョージ・モリソン(後に第一次東禅寺事件襲撃される)を一時イギリスの学校に通わせる関係も恐らくあり、1824年頃ロバート・モリソンは一時イギリスに帰国している。その時、イギリスにいたドイツ人宣教師ギュツラフを中国宣教師になる感化を誘う。

ギュツラフもオランダ東インド会社経由でパダヴィアから中国に入っている。そのため、まずジャワ島などでタイ語の聖書の訳などをして布教するが、中国への布教を希望するとオランダ東インド会社に許されず脱会する。その後、ロバート・モリソンと合流し、ロバート・モリソンの中国語訳の聖書の編纂活動(このロバート・モリソンの中国語訳聖書を中国人が開設したものを太平天国の乱を起こすこととなる洪秀全が読む)などを手伝う。また後に日本の初代英国の日本外交官パークスの従妹とギュツラフは結婚する(これがパークスが中国に来る理由になる)。

ギュツラフは1831~33年頃は、上海などの中国付近を船で旅し、東インド会社に有用なレポートを書いている。日本にも行くが上陸が許されず、琉球には上陸して報告を書いている。このレポート(ジェーナル形式のもあったようである)に息子ジョージ・モリソンも投書している。

1834年ロバート・モリソンが亡くなる。そのため、ギュツラフはモリソンの中国語訳聖書を手直しする。これが太平天国の乱の集団の中で読まれることになるという。また、東インド会社の通訳となる。こうしてイギリスからの漂流民「音吉」と出会う事になる。そして、ギュツラフは「音吉」の助けを借りて、日本語訳聖書を完成する。ただ、「音吉」は日本に帰りたいとい想いがあり、聖書の編纂に携わると日本においてお咎めを受けることを恐れたという。

最初は、東インド会社で日本に送ろうとしたものの、後にアヘン戦争に発展するように中国とイギリスの関係が悪化していて余裕がなく、アメリカの商船にその役目を任せられる。その船がアメリカ商会「モリソン号」だった。

「モリソン号」には、「音吉」とギュツラフと後に日米和親条約においてペリーの首席通訳をすることになるサミュエル・ウィリアムズ(吉田松陰がボーハタン号に密航時の対応も彼がする)が乗船することになった。

しかし、日本側は打ち払いを優先する事になり、1839年蛮社の獄に繋がる。

②アヘン戦争・太平天国・アロー戦争とイギリス政府

アール・グレイで有名なグレイ侯爵は1830年にイギリス首相となる。

1830年というと、フランスにおける七月革命の年である。フランスにおけるナポレオン後の王政復古から自由主義的な考えを求めて起こった革命である(この時はナポレオン三世はスイス砲兵でナポレオン家再興を少しだけ夢見た程度)。この革命が波及して、ベルギー独立が起こり、さらにロシアのニコライ1世が国王を兼任していたポーランド騒乱が起こる(ルー・ザロメの父が活躍しニコライ1世に注目され世襲貴族となり、陸軍のトップになる道に繋がる)。またイベリア半島においてもこの影響は波及してスペインにおいてはチャーティストの乱やポルトガルにおいても反乱が起こる(このイベリア半島の動乱の中1832年、初代日本駐在英国大使となるオールコックが軍医として派遣されている)。

このように外交が荒れたため政権交代が起こり、グレイ侯爵が首相に選ばれたようである。そして、この時の外相が後にアロー戦争を主導する事になるパーマストンであった。また1834年にはメルバーンが首相となるが、パーマストンは外相を留任している。

1838年、ヴィクトリアが女王に就任しメルバーン首相はヴィクトリアの信頼を得ている。

一方、1836年からパーマストン外相は清国における支配を強めるため、チャールズ・エリオットを監察官として派遣している。しかし、中国側の林則徐が欽差大臣として任命され広東(当時は広東のみ清国は西洋との貿易を認めていた)に派遣され徹底的にアヘンの取り締まりを行った。その結果、ついにアヘン戦争に至ることになる。

アヘン戦争の途中、チェールズ・エリオットに変わってポッティンガーがパーマストンの命を受けて派遣され、徹底的に攻撃を仕掛け、1842年の南京条約に繋がる(ただし、メルバーン首相は第一次アフガン戦争におけるイギリス軍の壊滅的影響から退任している)。それにより、広州の港が開かれ、ポッティンガーは香港の初代総督となる。ここの通訳に、ロバート・モリソンの息子・ジョージ・モリソンがなっている(この辺りが後にオールコックらと日本に駐在し第一次東禅寺事件を迎える繋がりになるのだろう)。

このポッティンガーの通訳ジョージ・モリソンのもとで働き始めたのが、後に英国の初代日本外交官となるパークスである。パークスは少し前に、ドイツ人宣教師ギュツラフと結婚した従妹を頼って中国に行き、その後マカオに向かい、そしてジョージ・モリソンのもとで働くことになったのだ。そのため、コーンウォリス号で行われた南京条約調印にも立ち会っているという。その後、パークスは厦門の領事館通訳となり、福州領事となるべく厦門いたラザフォード・オールコック(後の初代英国日本領事)のもとに就くことになる。

同じ頃、南京条約で多くの港を開いた広州において洪秀全という何度か科挙を受けるも失敗してしまった人が、1843年ロバート・モリソンの中国語訳聖書を中国人が解説した本を読む。ここで科挙で作られていた中国の思想家によって形成された社会観から、キリスト教の社会観を学び、なおかつ以前にみた衝撃的な夢とも照応して、キリスト教をベースにした宗教を作る。但し、ヤハウェを父とし、キリストを兄とするなど、モリソンの神を「上帝」と訳した部分などの混同もあり、完全にはキリスト教ではない。また洪秀全自体近くにあったキリスト教会に入って修行しているが時期尚早として洗礼まではいたっていない。ただ、キリスト教を重んじていたため、洪秀全の団体は清国政府より西洋の領事の方が序列が上だとも考えていた(ただし、西洋側はそう扱われたとはあまり感じなかったらしい)。

そしてついに1851年に洪秀全は蜂起する。一方、欧州ではフランスのルイ・ナポレオンはトップとして再選できない選挙制度に不満を抱き、クーデターを同じ年に起こし皇帝ナポレオン3世となっている。

1853年、洪秀全は南京を陥落させる。同じ年に、欧州ではクリミア戦争が起こっている。ナポレオン3世がエルサレムの統治権をオスマントルコから譲渡される約束を交わしたところ、ギリシア正教を信じるロシア側が反対の表明をして始まった戦争である。もともとロシアとトルコは何度か戦争をしていて、ロシアがトルコに優位に立場にある中、トルコ側がイギリス・フランスなどの力を借りて反転しようと考えた側面があった戦争であった。そのため1854年にイギリスはクリミア戦争の参戦を決めている。そして戦争の膠着状態が続き、クリミア半島に戦場が局所化し始め、ナイチンゲールが対岸のスクタリに派遣されている。それを支えた戦時大臣ハーバートは1847年結婚のためローマに保養旅行をしたところ、看護の道を志しつつも家から出してもらえなナイチンゲールを冒険好きの夫妻によってローマに連れて行っていたときに出会う。

クリミア戦争がクリミア半島で膠着状態になってしまい、アバンディーン内閣は解散することになる。そして、首相に望まれたが、グレイ伯爵とメルバーンの外相(その後も外相として活躍していた)として活躍していたパーマストンである。パーマストンなら強硬に戦争を激化させ、解決に向かわせていくれると思われたようだ。ナイチンゲールを助けていた戦時大臣ハーバートはパーマストンのもとでも留任するが、平和派(グラッドストンやピール派)だったため二週間で下野している。そして、パーマストン内閣は見事、クリミア半島におけるロシアとの和平までに導く。もっとも、フランスの支援あってこそだったのでナポレオン3世の顔を立てて、和平はパリ条約として結束する。こうしてロシアは黒海方面の進行がかなり難航になる。

そして、クリミア戦争が片付くと、問題として認識しつつも手を付けられなかった中国との貿易の問題に着手する。南京条約を結びつつも、その後清国側の独特な外交の故に想うように進んでいなかった。そのため、上海領事の頃から市場開拓のために清との再戦論を唱えていた広州領事のオールコックがパーマストン首相に対し武力行使をするように進言する書簡を送り、アロー戦争が起こることになる(多分太平天国でなど清国内が内戦で荒れていたためもあると思う)。

1856年10月、イギリス籍を持っていたとされる中国人が乗った海賊船を清政府が拿捕し、その内数人を処罰する。それに対して、イギリス籍の船内はイギリスの領事権があるとして、それを口実に清国に戦争を仕掛けるアロー戦争が勃発(この抗議は広州領事ハリー・パークスが行い、本当はイギリス籍の期限は切れていたが気付いていなかったようである)。1857年5月、主力のカナダ総督をしていたエルギン伯ジェームズ・ブルースを中国に送るが、丁度そのタイミングでインドでセポイの反乱が起こる。1850年辺りにイギリスは完全にインドを支配する事になったが、イギリス軍が新しく採用したエンフィールド銃では火薬がしけるのをふせぐため、ウシやブタの脂がぬられていたため、インド人のイギリス傭兵は反乱を起こし、イギリスの年金でほそぼそと暮らしていたムガル帝国の最後の皇帝を担ぎ出しての反乱であった。そのため、エルギン伯の部隊の多くはインドに向かう事になり、エルギン伯にはあくまでインドの対応がイギリスにとっての主要問題であり清国の制圧は広東に限りる事という訓令が出ている。

そんな中、エルギン伯は1858月6月天津条約を列強と共に中国と結ぶ(但し、1月にはパーマストンはナポレオン3世暗殺未遂によりイギリスの殺人共謀罪を厳重化したことから総辞職に追い込まれている)。その後、手が空いた英国艦隊は日本に向かい、8月日英修好通商条約を結ぶ。条約の場には、エルギン伯と函館で1853年プチャーチンと日露和親条約の交渉を榎本武揚らを部下に持ち外国部長になっていた堀利煕や、通訳として森山多吉郎(その後福澤諭吉が英語を習いに来ている)らがいる。

そして、1859年6月パーマストンが改めて第二次内閣を組織し首相となる(ヴィクトリア女王はグランヴィル伯を望んだがラッセルが年下には付けないとしたため)。そして、1860年に北京まで攻めさせないために天津条約を結んだ清は条約を履行しようしなかったため、あらためてエルギン伯ロバート・ブルースを派遣しアロー戦争を再開している。その際、広東領事だったパークスはエルギン伯の補佐官兼通訳を勤めエルギン伯と共に清国軍に捕らえられている、その後円明園の破壊などを通して北京条約を結び九竜半島など有利な条件で条約を締結する。この際、ロシアは外満州の割譲を受けている。

アロー戦争で英国は清政府に対して有利になると、太平天国の乱の鎮圧に手を貸している。1862年には千歳丸に乗った五代友厚(1856年に勝海舟や榎本らと長崎海軍伝習所で学んだ後、水夫として千歳丸に従事していた)と高杉晋作(松下村塾の後安政の大獄で松陰の死を見届け、江戸や東北などに遊学後)は上海に行っているが、今まで日本には太平天国に対して一定の評価があったものの、この頃にはキリスト教に基づいたものと知り、高杉らも邪教で惑わしたというような評価で見ている。福沢諭吉は1862年遣欧使節でまず香港にいっているが中国人が犬同然に働いているところに驚いたようである。

そんな最中、アロー戦争の開始時に影響を与えた広州領事だったオールコックは、エルギン伯が結んだ日英通商修好条約の履行で日本への駐在官を置くことになり選ばれて日本に行く。そして品川沖の東禅寺に駐在する事になる。

ただし1861年1月タウンゼント・ハリスの通訳を行っていたヒュースケンが水戸の脱藩浪士に暗殺される。前年、11月にイギリス人マイケル・モースが狩りの途中役人に従僕が捕らわれそうになり、江戸城付近では銃器の発砲が禁じられているにもかかわらず発砲して役人が重傷を負うなど、駐在外国人は報復を警戒して緊張していた最中だった。そして、オールコックらは駐在外国人は横浜に避難することを決めるがハリスは反対し、ハリスとの仲が悪くなっている。そしてオールコックは4月下旬にモース事件の後処理に香港に向かっている最中、ロシア軍艦津島占領事件起こる(この事件は次の章に扱う)。

そして7月ついにオールコックも攘夷志士に狙われる第一次東禅寺事件が起こる。襲われた東禅寺のメンバーにオールコックと、ロバート・モリソンの息子で香港でポッティンガーの通訳(その元にパークスがいた)をしていたジョン・モリソンと、アロー戦争や日英修好通商条約の実行役となったエルギン伯がカナダ総督だったころその下で秘書としていたオリファント(モリソン号事件のオリファンと商会の創業者オリファントは別人でスペルが違う、またエルギン伯がアロー戦争で清国に来たのでその秘書として日英修好通商条約に同行)が馬鞭で対抗したことがイラストとして残されている。

③ロシア軍艦対馬占領事件

【ロシア軍艦対馬占領事件】

1861年、ロシア軍艦が対馬を占領した。

タウンゼント・ハリスの通訳であるヒュースケンが暗殺され、外国の駐日公使たちに緊張が走る中のことであった。

 英国の駐日公使であるオールコックは、一時横浜に避難していたが、ヒュースケン暗殺前に江戸城付近で発砲してしまい日本人の反感を買うようなムードを作ってしまったマイケル・モースを国外追放した件で香港に行っていたときに、この占領事件が起きた。

ロシア軍艦の艦長は、黒海やクリミア戦争において海軍をしてきた、経験のあるニコライ・ビリリョフであった。

■①エジプト・トルコ戦争■

1825年にロシア皇帝に即位したニコライ2世は、黒海付近のエリアに領土を拡大すべく、オスマン・トルコ帝国と争っていた。

オスマン・トルコの領土の中で、ギリシャ正教を信仰していたロシアにとって、ギリシャが独立をすることは重要なことであり、ギリシャ独立戦争に支援をすることにした。

この支援することとなったのは1827年のナヴァリノ海戦(帆走船主力の最後の戦いとして印象的)においてである。後に日露修好通商条約を結ぶことになるプチャーチンが参加していて、このときに軍功をあげている。

ただ、このロシアの支援にオスマン帝国は激怒し、ロシアとオスマン・トルコにおいて、戦争が勃発する。これにロシアが決定的な勝利を収め、ギリシャの独立も1830年には確たるものになった。

ただ、これらの戦いのためにオスマン・トルコはシリアの領有権を渡す代わりにエジプトから莫大な資金調達をしていた。しかし、オスマン・トルコはこれらの戦争に負けると、エジプトにシリアの領有権の譲渡を行わず、エジプトがそれに反感を抱き第一次エジプト・トルコ戦争が起こった。

エジプトが優勢的だったが、オスマン・トルコに対して優位に立ちたいと考えていたロシアは、オスマン・トルコに支援にでることにして状況を盛り返した。ただ、ロシアの地中海への進出を恐れたイギリス・フランス・オーストリアはオスマン・トルコに和解を持ち掛けエジプトとオスマン・トルコは和解をした。

しかし、オスマン・トルコを支援したロシアは、黒海における入り口ともいえるダータルネス海峡における独占的とも得る条約をオスマン・トルコに対して結んだ。

■②ロンドン条約■

イギリスは、このロシアの黒海における進出に危機感を抱いていた。

そして1840年、メルバーン内閣外相であったパーマストンの努力によってロンドン条約を結ぶことで、黒海における武装した軍艦の行き来を禁止した。こうして、ロシアが黒海において優位にたっていた状況を打開した。

この条約は大英帝国の外交としては頂点と評価されているらしい。アヘン戦争のように中国との関係の悪化やアメリカとカナダ問題でもめている中、ロシアの牽制を直接的な戦争もせずに交渉によって成し遂げたことが。

ただこの条約はどの程度の力があったのかはよくわからず、1842年にはプチャーチンがイギリスに黒海艦隊の購入の交渉に向かっていて、1845年にはロシア軍艦占領事件の艦長ビリリョフが黒海艦隊として勤務していたりする。

■③クリミア戦争■

そんなロシア、オスマン・トルコ、イギリス、フランスの思惑が絡み合った黒海だが、オスマン・トルコはロシアから離れイギリス・フランスと協調することを考えるようになった。

1853年、フランス皇帝ナポレオン三世にオスマン・トルコがエルサレムの管理権を与えると、ギリシア正教を信じるロシアが反発し、クリミア戦争が始まった。

ただ、イギリスとフランスは最初からオスマン・トルコ側に支援して戦争に参加していたわけではなく、シノープの海戦においてであった。一方的にオスマン・トルコに対してロシアが勝利するほどのもので、「シノープの虐殺」とも報道されイギリスとフランスが参戦したのだ。この戦いは木造船に対する炸裂弾などの有効性が確認され、装甲船の開発が考えられるきっかけの戦いともなった。またロシア軍艦占領事件のビリリョフもこの戦いに参加している。

こうしてクリミア戦争はクリミア半島付近のみの戦闘でなくなり、広範囲な戦争になっている。1854年にはイギリス・フランス連合艦隊がカムチャッカ半島に攻撃し、日露和親条約を勧めようとしていたプチャーチンが一度交渉を断念している。

そして、ようやくクリミア半島に要塞が決戦的な戦場と見なされた1854年10月にセヴァストポリの戦いとなる。この戦いは海岸線にあるセヴァストポリ要塞にロシア側が立てこもるが、北側の海岸線側は高度に防禦を固められていたため、イギリス・フランス連合軍は南の陸路で攻撃を仕掛けるが想像以上に長期化してしまった戦争である。そのため、黒海対岸にあるイギリス軍基地における病院で衛生状態が十分にとれず問題がおこりナイチンゲールが派遣されることとなっている。

このセヴァストポリの戦いには士官候補生のトルストイも参加しているが、ビリリョフも参加して頭部に重傷を負っている。しかし、その後戦争で活躍し中尉に昇格している。

■④そして、ロシア軍艦対馬占領事件■

そんなクリミア戦争の激戦を駆け抜けたビリリョフが、多少独断的な部分もあったが対馬を占領した。

極東における根拠地の獲得が目的であり、アジアに植民地を広げるイギリスに先を越されないとされるために行われた事件と言われている。オールコック自身も対馬の武力占領は案としてあったという。

タイミングとしては1860年にアロー戦争にイギリスが中国に勝ち北京条約を結び多くの有利な立場になっていた時期である(そのときロシアは外満州を手に入れている)。

その対馬占領事件に対応あたったのは、福澤諭吉や勝海舟を連れてを1860年に咸臨丸でアメリカに行くことに成功した小栗忠順であった。アメリカに行ったことで外相になっていたのだ。

また香港にいっていたオールコックも戻ってきて、この事件の対応にあっている。そして、井伊直弼失脚後の安藤信正がこの事件を処理した。

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